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岩渕潤子
『アグロスパシア』主筆・編集長、青山学院大学客員教授
ニューヨークのホイットニー美術館でのヘレナ・ルービンスタイン・フェローを経て『NY午前0時 美術館は眠らない』(朝日新聞社)を出版。フィレンツェ、ロンドンで研究を続けながら、執筆活動を開始。専門領域は美術館運営・管理と文化施設の情報デザイン、富裕層マーケティング、多様性とソーシャル・インクルージョンなど。AR/VR等のメタバースを中心としたITスタートアップとアートの掛け算となるプロジェクトを模索中。静岡文化芸術大学准教授、慶應義塾大学教授を歴任の後、現職。著書に『美術館で愛を語る』(PHP新書)、『ヴァティカンの正体: 究極のグローバル・メディア』(ちくま新書)ほか多数。
Twitterアカウントは:@tawarayasotatsu
聞き手:米田智彦・長谷川賢人 文・構成:長谷川賢人
日本のメタバース議論は退行的ではないか?
ビジネス界を中心に「メタバース」という言葉が飛び交っています。FacebookがMetaへ社名を変え、投資が集まる機運を見せています。それを横目に思い出すのは、かつてもてはやされていた「セカンドライフ」です。サービスのリリースは2003年、盛り上がりのピークは2006年頃でした。ただ、日本における現在のメタバース議論は、ほぼ「あの時のセカンドライフみたいなもの」と言っても差し支えないのでは?
私自身、メタバースやホログラフィックな表現には10年ほど前から関心を抱いてきました。セカンドライフが社会の注目を集め、企業がバーチャルな土地を確保したり、大学のキャンパスが誘致されたりと、現在の「デジタルツイン・シティ」と同じような動きが起きていたのを覚えています。しかし、VRゴーグルはおろかiPadさえない時代です。私たちはセカンドライフを十分に楽しむためのハードウェア、そして通信環境を確保することさえ難しい時代だったのです。
それが現在は通信環境が段違いに良くなり、当時「やりたかったこと」の数々が、ようやく実現できるようになってきました。一例を挙げれば、2021年9月に東京医科歯科大学小児科が実施した、病棟にプロジェクションマッピングを設置するためのクラウドファンディングです。子どもたちの不安が和らぎ、笑顔になるための工夫としてホスピタルアートに注目したプロジェクト。
実は私も10年前に、長期療養の子ども向けプログラムを模索し、医師や心理療法士とディスカッションを重ねたことがありました。しかし当時は通信環境などがネックになり、私たちの構想は思ったように実現できなかったのです。それが、このプロジェクトのように現実的な「できること」に変わったのは大きな進歩であり、感慨深くもあります。
これだけの進歩がある一方で、日本を取り巻くメタバースは「いかにそこで商売をするか」という表面的なビジネス論ばかり。インターネットが世の中に出てきた時、そこには哲学的議論がありました。「インターネットによって社会はどう変わるか」を盛んに語り、その可能性を深く思考したものです。環境が整備され、「やりたかったこと」が実現できるようになったはずなのに、そこでなされるのが「ゲーム感覚を用いたECやマーケティング」という話ばかりなのは、人間として退行的だと感じます。必要なのは、もっと根本的な議論のはずです。
もっと違う方法で、せっかくの「やりたいこと」が叶いつつある環境を用いて、人間として進歩の道を歩むことはできないものか──。そこで私は、メタバースによる死生観のアップデートを考えています。その一つの形が、メタバース上で行う「バーチャル供養」です。
「理想とするお別れ」を叶えるテクノロジー
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私のSNSフォロワーは7割が海外在住ですが、昨夏から「この状況で親が危篤になったらどうしよう」という話題が増えました。コロナ禍では危篤であっても入国制限があり、葬儀も隔離期間が必要になるため間に合いません。新型コロナウイルス感染症で亡くなった場合、遺体はすぐにボディバッグにしまわれ、次に会えるのは火葬後の遺骨になってからです。
世界中で「最期の別れ」が叶わず、また葬儀へ行けなかった後悔が募る人々の姿を、私はSNSなどを通じて見てきました。悲しみが可視化され、誰もが否応なく「死」に向き合うことになりました。新型コロナウイルス感染症は、私たちに死生観を考え直させたともいえるでしょう。
コロナ禍で始まったサービスに「バーチャルお墓参り」がありましたが、それらは従来のご供養を遠隔でつなぎ、映像を中継するだけに留まりました。そこで私が考えたのは、真に「バーチャル」を謳うのであれば、VRやホログラフィックな手法を用いて、全てがメタバース内で完結する供養へと定義を根本から変えることです。
私が想像するのは、言わば「自分が理想とするお別れ」を実現できるテクノロジーです。仮想空間でお見送りやご供養を行うことで、人の心のコンテクストに寄り添って、人間の根源的な部分に関わる形で、メタバースの活用を提示できるのではないか、と。平凡な毎日を暮らしていて、ふと亡くなった両親のことを思い出したとき、メタバースへログインする。そこでSiriやAlexaに話しかけるように、バーチャルな両親と面会し、対話できる。それこそが、これからの供養の形となるのではと私は思っています。
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少子高齢化だからこそメタバースで供養を
先日、青森県にある葬儀社「リンクモア」の船橋素幸社長と対談する機会があり、バーチャル供養のアイデアに熱く共感を示していただきました。青森といえば「恐山のイタコ」で知られる地ですが、それに通ずるものを感じられたようです。イタコを「霊魂を概念として見える化させ、対話を可能とする仕組み」と捉えるなら、バーチャル空間に実態のないデータを三次元表示させ、コミュニケーションが図れるメタバースとも似ているといえます。
葬儀のあり方が少子高齢化で変わり、都市へと人々が流動する流れが高まる中、葬儀社も新たなサービスを構想しなければならないという危機感があるようです。将来的に葬儀社は、バーチャル供養に関するパスワードやデータの管理を担う存在になっていく方向性もあり得ます。
バーチャル供養は参列者にもメリットがあります。少子高齢化とは、亡くなる方が高齢になるのと同じく、それを見送る参列者も高齢であることを意味します。足腰が弱っている高齢者の場合、遠方の葬儀場や墓地であったりすれば、物理的に行けないケースも珍しくありません。しかし、誰もが自分の若く元気だった頃のアバターをまとい、メタバース空間にある葬儀場に集えるのであれば、そこで皆が献花をしてお別れの挨拶ができるのです。
船橋社長は「スキューバダイビングが好きだった方が考える理想の葬儀は、海底に集まって見送られることかもしれない」と話してくれました。これを現実に行なうのは相当に難しいはずですが仮想空間なら容易でしょう。もちろん海底だけでなく、山登りの末に辿り着いた山頂でも、好きな場所を選べます。
メタバースに築く「記憶の国」
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まさに葬儀業界は過渡期です。お墓を建てる土地も墓石も高価で、見送る側の負担が大きいまま、多くの人は従来の伝統に囚われています。いわゆる「マンション型のお墓」という自動搬送式納骨堂も、まだ物理的な墓という存在を小型化したものに過ぎません。しかし、本当にお墓はこの形でなくてはならないのか。実際に物理的な場所は必要なのか。そういうことから根本的に捉え直せば、違う有り様が見えてくるはずです。
故人が元気だった頃のバーチャルなデータが保存されていて、メタバースにアクセスすることで数百数千に及ぶ写真や動画をいつでも見られるようにできれば、「その人」をぐっと身近に感じられるかもしれません。Facebookには「5年前の今日」といった過去の写真をレコメンドする機能がありますが、そのようにご供養の節目にデータを表示する仕掛けも喜ばれるかもしれません。
バーチャル供養は従来に比べて圧倒的に費用がかからず、今後の需要も高まる期待があります。そもそも、今の日本のようにお見送りや供養にお金がかかりすぎることが異常といえるかもしれません。そこで実現すべくは、お金をかけなくても、亡くなった人を十分に思い出せ、尊敬の念を抱き、懐かしむことができるような世界です。
私はこれに、メタバース上に築く「記憶の国」というイメージを描いています。クリエイターと共に各個人が記憶の国をデザインし、その世界観を作り上げていくのです。その「国」では故人一人ひとりに一つずつ部屋が用意されており、遺族はそこで亡くなった方のアバターやデータといつでも交流することができます。
そのように「人としての営み」をコンテクスト化してサービスを構築することは、VRやホログラフィックな表現を用いれば十分に可能となってきました。VRで葬儀というのは、少し極端な例かもしれません。しかし、「人と人が集まって何かをする」ということの捉え直しによってこそ、共感ベースの新たなビジネスモデルが作られるのではないか、と思うのです。
思い出ベースの付加価値を形作るサービスを
人間の葬儀だけでなく、ペットが亡くなった後のグリーフケアにもメタバースは活用できるはずです。ペットロスは飼い主の心的ダメージが大きく、そのケアは常に課題に挙がっています。今、私が獣医師さんとディスカッションを進めているのが、ペットが元気なうちにボリュメトリックキャプチャで三次元データを制作し、いつでも見られるベースを作っておくようにすることです。
ペットはライフサイクルが短いため、誕生日ごとにデータを残すなどライフログ収集を習慣にすることが一般化するでしょう。それを繰り返してデータの精度を高めながら、データの使い方の需要喚起を促していくことになると思われます。
あるいは「記憶のおもちゃ箱」も考えてみたら面白いかもしれません。子供の時に遊んだおもちゃは、引っ越しなどに伴って破棄することが多いですが、これらも捨てる前に3次元データとして保存しておき、ふと思い出した時にメタバースで触れることができるように「おもちゃ箱」にしまっておくのです。
全てのデータはクラウドへ保存され、どこからでもアクセスできます。プライベートなデータも増えますが、その置き場は必ずしも日本だけである必要はないでしょう。アメリカではオバマ政権の頃、FBIとCIAのデータのバックアップがエストニアにあることが話題になりました。国家の機密データであっても、信用の置けるデータセキュリティ先進国であれば、複数箇所に分散して置いておけば問題はないでしょう。
コロナ禍でも大きく需要を伸ばしたゲームは、きっとメタバースでも進化し続けていきます。しかしそれだけでなく、社会の進化に合わせたメタバースのあり方を議論しなくては、人間は次のステージへ進めないのではと思っています。同じテクノロジーを用いるのでも、単にECで物をたくさん販売する方法を考えるのとは全く違う議論が必要になるはずです。
思い出ベースの付加価値を形作るサービスの成功例が一つでも出れば、さらなる可能性が議論されるようになるでしょう。セカンドライフの焼き直しのような商業的議論だけでは物足りません。「メタバースのあり方」の未来を提示するような、人が生きることのコンテクストに沿った三次元データの使い方を、もっと議論したり考えたりすることが必要ではないでしょうか。